トリコロールたちとの日々

On vit ensemble, on meurt ensemble.(レ・ブルーと共に生き、共に死ぬ女のブログ)自分で見返す為に書いてる

20年前、2002年の大失敗①

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日本のサッカーフィーバーが頂点に達した2002年の6月から20年。98年のフランスワールドカップの頃はまだ幼稚園児だった私にとって、ちゃんとその盛り上がりを体感し、試合をちゃんと生で観た初めてのW杯でした。

 

俊輔の落選。中津江村カメルーン代表まだコンとですか?いつ来るとですか?事件。トルシエJAPANの勝利。ベッカムフィーバー。雨の6月18日。新興国の躍進。カーンのスーパーセーブ。ブラジルの破壊的な攻撃力。

 

全てが良い結果では無かったですが、いろいろな思い出があります。日本でワールドカップが開催されていなければ私の人生も少し変わっていただろうし、多くの試合の録画、雑誌のコレクションしたりするヲタクになる事も無かったでしょう。

ただこの大会で1番残念だったのはフランス代表のグループリーグ敗退。ジダンが大会前怪我をした事が確かに1番影響を与えたのですが、それよりも前から王者フランスには綻びがありました。

 

大会前の親善試合でロシアに引き分け、ベルギーに敗北。韓国には勝ちますが、デサイー、ルブフがパク・チソンのスピードについていけず先制点を許すなどして2失点。決していい状態では無かったのですが、ルメール監督は頑なにスタメンをいじりませんでした。また日韓大会は東アジア特有の梅雨を警戒して開幕が通常より10日ほど早くなったためシーズンの疲れをより負ったままでした。他のチームも同じ条件ではありますが、当時フランス代表のスターたちは特に多くの選手がビッグクラブでプレー。そのためチャンピオンズリーグなどの過密日程により酷使されていました。その一つの例がアーセナルロベール・ピレスの3月のFAカップでの大怪我でした。これによりフランスは唯一ジダンの代わりが務まりそうなMFを失います。

 

フランスだけでなく、もう1つの優勝候補筆頭であったアルゼンチンもグループリーグで姿を消した2002FIFAワールドカップ。結論から言うと、彼らのチームとしてのピークは1年前でした。そこからあまり変化を加えられず対策されてしまった上に、主力の怪我、そして決定力に欠けた事が敗因でした。(アルゼンチンの場合はイングランドスウェーデンの固い守備を崩せず)

 

また、戦い方としても、ほぼ自分達が試合の大部分でボールを支配する王者のサッカーしか出来なかったのが、湿度の高い東アジアではきつかった気がします。現にこの大会のファイナリストブラジルとドイツは7試合通じてポゼッションを相手に譲る事が多かったです。(ちなみに決勝は圧倒的にドイツが高かった)

 

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これは開幕戦となったセネガル戦のスタメンですが、なんとディフェンスライン全員が4年前のワールドカップ決勝のスタメンと同じです。

エメ・ジャケのアシスタントを務めていたルメールが監督を継いでからの4年間、彼は最後までディフェンスラインの若返りを怠り、結局33歳と34歳のセンターバックコンビはセネガルのディウフのスピードについていけませんでした。そしてディウフの突破から結果的に決勝点を許してしまいました。

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